人生のボトムラインの3年間
コザ移住を果たしてから
彫金アトリエをやめてから、わたしたちは沖縄に来たんです。
小浜島リゾバ体験記 ルームメイド編こちらの記事でも書いたんですけれど、離島でリゾバをしました。
そこからコザの街に移り、3年間ほどの空白期間があります。
その3年間は仲宗根町のマンションに住んで、まぁまぁ「いい生活」をしていたんです。
でも人生の暗黒時代でした。
一緒に暮らしたい、とできたばっかりの彼氏に言われてホイホイ仲宗根町に引っ越したんですけれど、彼氏がメンヘラでモラハラ&DV野郎だったんです。
当時は精神分裂症と診断されていたんですけれど、今では統合失調症ですね。
鬱の時は放っておいても寝ているのでいいんですが、躁転したらはげしいです、罵倒と暴力が。
豊かな生活の裏で
経済的には比較的豊かだったんです。
彼氏の年収が1,500万円ありましたから。
ほら、わたし高卒でしょう。
資格も何もないし、コザでは昼間の仕事が見つからなくって、夜の仕事しかできないし、こんなんだったらお金持ちの男性の収入に乗っかっておうちの事をしていたらいいんじゃないかなって計算したんです。
まったく、あたびちゃーの小さな脳みそは浅はかですね。
暗黒時代と言うかモラトリアム期間は3年間なんですが、最初の1年目は絵に描いたように幸せな暮らしだったんです。
これが2年目になって、躁鬱の振り幅が彼自身ではコントロールできないほど過激になって、躁鬱の山を繰り返したんです。
3年目はほとんど彼と離れて住み、慰謝料で生活していました。
この間に別の男性と結婚して、子供もいます。
1年目の甘い思い出があるから、彼氏が強制入院で閉鎖病棟に入っていても、やり直せるんじゃないかと、彼の病気について本を読みまくって勉強しましたが、やっぱり躁転した時に彼が悪魔みたいになっちゃってわたしに激しい憎悪をぶつけられるのが辛かったです。
支えてくれる人もいなかった
当時は今ほど精神病への周囲の理解が乏しく、誰かに相談するとかできなくて、家庭という密室でわたしはやられっぱなしでした。
反撃しようにも自己評価を破壊されていたので、何もできませんでした。
その頃のわたしは沖縄に来て日も浅く、友だちと呼べるような人もなく、札幌の友人知人にはこんなにみじめな状況は手紙に書こうにも書けず、なにもかもひとりで抱え込んでいました。
出口の見えない闇の中で毎日泣いて暮らしていました。
まとめ
それでも1年間躁鬱の暴風を経験してみたら、「このままで一緒に暮らしていたら、わたしの方が病気になるはずと思って、強制入院で躁状態を落ち着かせていた彼に別れることと慰謝料の請求をしたんです。
一括で彼の年収ほどの金額を要求しました。
これはダメ元で、彼が暴れたら弁護士を立てるつもりでしたが、薬で落ち着かされていた彼は元々の鷹揚な性格を一瞬取り戻し、わたしの言いなりの金額を振り込むと約束してくれて、家族の方にでもお願いしたんでしょうね、数日後に振り込まれていました。
慰謝料のお金があったから、働かんぬーの夫との生活で妊娠出産は心配事もなく暮らせたんですが、そろそろお金がないなー、と思って仕事探しと保育園探しを始めたんです。
彼氏にしたわたしの仕打ちを鬼だと感じる方もいるかと思いますが、あれは生きるための選択でした。
あまりにも色々とひどい事をされて自尊心が破壊されていたので、わたしは生き直すためにお金が必要でした。
今、悩みを抱えている方は、ツイッターなんかにひたすらつぶやいてみてください。
たくさんつぶやけば、どうしたらいいのかだんだん道が見えてくると思います。
わたしもあの頃ネットがあったらブログやなんかで彼氏の悪口をガンガン書きたかったです。
ノートに書いて発散していたんですけれど、見られちゃってまた半殺しでした。
本当にくだらない理由です、ノートに自分の名前が「さん」付じゃなかったって逆上してたんです。
別れるためにはシェルターでもなんでも利用しましょう。
こういうのは行政でやているので、相談窓口は要チェックです。
慰謝料を取るんでしたら、後腐れがないように一括がいいですね。
メンタルの病気は愛情で治るものではありません、まずあなたが生きることを優先してください。
コメント