30代でやりたいことを実現するために
20代の頃は自己肯定感が低かったです
「ほんとうに沖縄には仕事がない?」この記事でも書来ましたが、わたしの場合なんですけれど、20代の時は自己肯定感がとても低かったです。
なにかしたいと思っても、どこにも自分の居場所がないような気持ちでした。
こんな方はわたしだけじゃなくて、結構多いんじゃないかと思います。
けど20代の迷走は30代になった時に整然と繋がったような感じでしたから、迷走していてもいつかはすべてがつながる日が来ると思います。
カメラ屋さんの仕事
高校卒業後の進路でわたしはまずつまづいているんです。
わたしの希望は東京にあるデザインスクールに行きたかったんですけれど、わたしを銀行員にしたかったらしい母が猛烈に反対していたので、東京に行くから学費と生活費を出してちようだいと言える雰囲気ではなくて、その頃写真が好きだったからカメラ屋さんに就職したんです。
カメラ屋さんの仕事はあまり長続きしていないんですが、本店に研修にも行きました。
店内には女性の従業員がたくさんいて、男性は外商に行ってたんでしょうかね。
カメラ屋さんですから、女性にできる仕事は少なかったような気がするんですがとにかく女性が大勢いて、やがてわたしは街中の支店に行くことになって、男性の店長さんと二人で店番をしていたんですけど、バス通勤で冬場、雪が降ると時間が読めないんですよ。
よく世間では沖縄の人は時間にルーズだといいますが、冬場の札幌だって負けていないと思います。
雪を見越して早いバスに乗ればいいって話なんですが、仕事に対してそこまでの熱量がなくて遅刻ばかりしていたのですぐにクビになりました。
クビになるとか、お前の代わりはいくらでもいるよ、と言われているようなものですよね。
その時のわたしは仕事をナメきっていたので気にしていなかったんですが、母は怒り心頭で「おまえは社会不適合者だ」と掃除機のホースで殴りかかって来ました。
そこまで言われても「そうかしら?そんな娘に育てたのは誰かしら?」とポカーンとしていました。
彫金アトリエの仕事
それでもカメラ屋さんでは半年以上働いたので失業保険がもらえることになったんです。
「失業保険をもらいながらプラプラして暮らせるな」と思ったんですけれど、ハローワークでどうしても面接に行けってから電話までしてくれたので、渋々行った面接先の彫金アトリエで「明日から来い」と社長に言われたので行くことになったんです。
社長もケチですね。
求人誌はいくらでもあったのに、わざわざハロワに求人出すなんて。
彫金アトリエでは金属のアクセサリーやインテリア小物を作っていたんですが、まずクロッキーブックを渡されて「これに絵を描け」って言われたんですが、子どもの頃は絵を描くのが好きだったんですけれど、歳を取って絵心がなくなって来てほとんどクロッキーブックは使いませんでした。
彫金アトリエではアクセサリーのパーツ類も自分たちで作っていたので、線と地金を渡されてカットするところから仕事は始まりました。
カットしたものをバーナーでくっつけて酸洗いから研磨、みたいな流れで作っていって、値札をつけたりペンダントやイヤリングにはチェーンや金具をつけて、納品に行ったりホテルやデパートの催事に行ったり、なにかと目まぐるしい日々が始まりました。
クリエイター系の仕事なのでやりがいあったかと思われがちなんですが、逆にやりがい搾取な業界で、当時の花形職業はハウスマヌカンだったので、わたしもそんな仕事がしたいと思っていました。
まとめ
アトリエには23歳になるまでいました。
絵を描くところから販売までトータルで仕事ができたことはのちのわたしの強い武器になっていたんですけれど、20代の頃にはそれがどんな意味を持っているのかわかりませんでした。
このスキルはお金を払ってまで教わりたい人がいると思うんですけれど、年齢が若いうちに思考法を覚えられたことに感謝しています。
あとで大きく自分を助けることになるスキルでした。
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