コザの街でアパート探し
思い出のローヤルホテル
ようやくコザの街に着いて、わたしたちはアパートが決まるまでホテル住まいをすることにしたんです。
ホテル住まいと言ってもそんなに贅沢なホテルじゃありません。
そもそもコザにはリゾートホテルみたいのは今も昔もありませんから。
パークアベニューのどん詰まりには今はコリンザがありますが、当時は何もなくて、コリンザの斜め向かいのマンションが建っているあたりの大きなお墓がふたつあるところの隣にあった、アメリカンスタイルのローヤルホテル?に泊まったんです。
ここは食事なし1泊3,000円だったんですけれど、昔は超デラックスなホテルだったんじゃないかと思います。
モーテルでもないし、コザに多い連れ込み宿っぽさもなくて、客室が広めでクローゼット代わりの洋服ダンスとベッドが置いてあるんですけれどタンスはミッドセンチュリーな感じでかなりオシャレでした。
パークアベニューからすぐのホテルだったので、朝はチャーリータコス、夜はニューヨークレストランみたいな生活だったんですけれど、ちゃんとアパート探しもしていました。
あからさまな態度の不動産屋さん
不動産屋さんにも行ったんですけれど、一軒目で心が折れてしまって。
カウンターの座るなりわたしたちをじろじろ見て「内地の人たちは部屋代踏み倒すからね」って言うんです。
わたしたちはそんなことは決してしないと言いつのってようやくお部屋を見に連れて行ってくれたんですけれど、どこもかもヤル気なさそうな物件で、こぎれいなところに住みたがる友人だけじゃなくて、わたしも無理でした。
今はこんな絵に描いたように意地悪をする不動産屋さんはもちろんいないと思いますが、昔は一事が万事この調子でした。
泣き落としで決めたアパート
不動産屋さんが親身になってくれないどころか、ナイチャー嫌いを表に出してくるので、わたしたちは若かったからできたことだと思うんですけれど、一軒一軒見て歩いてアパートを決めようと言うことになりました。
ここが良さそう、あっちの方が良くないとか言いながらコザの街をしらみつぶしに歩いていたんですけれど、数日歩いてからようやく気に入ったアパートを見つけて、そこは家主が1階に住んでいるようだったので、思い切ってピンポンを押しました。
家主さんはビックリしたんじゃないかと思います。
ナイチャーの女の子がふたり、いきなりおうちのピンポン鳴らしてからに「お部屋貸してください」と言うもんだから。
わたしたちはそのまま家主さんのおうちに呼ばれて、事情を説明したんですけれど、部屋を借りたい熱意のあまり床に頭をこすりつけんばかりの態度でした。
「内地の人はすぐ引っ越すでしょう?」とか言ってわたしたちを冷ややかに見ていた奥さんも、やがて涙を流してお願いしているわたしたちに部屋を貸すことを同意してくれて、不動産屋さんを断ってくれました。
まとめ
コザだったからこんなに部屋が借りにくかったかと思うんですけれど、今だと那覇の新都心とか北谷とかお家賃の高いところはかえってビジネスライクなナイチャーでも部屋を借りるハンディはないんじゃないかと思います。
わたしたちの沖縄移住の入り口について駆け足で書いてきましたが、次からは今のコザを書いて行きたいと思います。
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